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東亜楽器株式会社

職人の紹介

鈴木芳治氏

津軽三味線と師匠との出会い

鈴木芳治氏

京都のちりめん職人の家で生まれた鈴木氏、若い頃から音楽に親しみギターに心惹かれプロ演奏家の世界に憧れる。

様々な音楽を聴き演奏もしたが最終的に最も惹かれたのが『津軽三味線』だった。

そんな鈴木氏は23歳単身で東京に上京。

仕事をしながら東京の津軽三味線の師匠に付きプロの『津軽三味線の演奏家』を目指した。

そんなある日、当時師匠から青森、弘前から東京に演奏で来られた『山田千里氏』を紹介してもらう。

山田千里氏の演奏に感激し『この人しかいない』と思った鈴木氏は仕事も全部辞め山田千里氏のいる青森の弘前へ。

佐藤通弘氏との出会い

鈴木芳治氏2

青森、弘前で山田千里氏に師事した鈴木氏は

朝から津軽三味線の練習に明け暮れ、夜は山田千里氏の経営する民謡酒場『山唄』で演奏しながら働く毎日。

当時の共に苦楽を共にした仲間、同期に『津軽三味線日本一大会』の第一回、第二回の優勝者の『佐藤通弘氏』がいる。

今でも佐藤通弘氏と親交の深い鈴木氏、その信仰の深さは佐藤氏の息子である『佐藤通芳氏』の名前でもわかるように『通芳』の名前は佐藤通弘氏の『通』の文字とと鈴木芳治の『芳』の文字を取っているのだ。

我が子に友の名前の文字を入れるほどの付き合いだと言う事がわかる。

だがそれぞれ『演奏者』と『職人』の道に進む方向が分かれていくことになる。

三味線を始めた当初から、『三味線職人』にも興味を持っていた鈴木氏は演奏だけでなく徐々に三味線を『作る事』、『メンテナンス』、『修理』などに気持ちが動いていたと言う。

どんなに三味線が上手に弾けてもどんなに技術があっても三味線の『調整』や『メンテナンス』もかなり大事だと言う事。

細かい調整ひとつで三味線の音が全然変わり、それに伴い弾き方も変わってくる。

また、元々職人の家柄でもあった鈴木氏は、日に日に職人への思いが大きくなり、山田千里氏の元を離れ、三味線の職人の道へ。

慣れ親しんだ青森から東京へ戻り、紹介してもらった、当時の大手三味線メーカーへ就職する。

三味線職人として必死に職人の技術、腕を磨き、貪欲に三味線の研究をした。

友である佐藤通弘氏に負けたくない気持ちも大きかったと言う。

ある日、そんな鈴木氏のもとへ佐藤氏が。

鈴木氏の職人としての腕前を見て『僕の三味線は全て鈴木に任せる』と。

共に同じ師匠で学んだ友だが、別々の道に行ってもお互いを高め合える存在で、今でも佐藤氏の三味線は全て鈴木氏が全て請負ってる。

その腕は、どんどん洗練され『仕込み』『調整』『仕上げ』はまさに『神業』と言っても過言ではない。

今では佐藤氏と同じように「『日本一』の職人」と呼ぶにふさわしい。

私も以前に三味線職人の修行をし三味線の検査などもしているが鈴木氏の腕、技術の洗練度はたくさんの方が言うようにまさに『神業』レベルである。

鈴木氏は言う。

「『職人』は『芸術家』とは物づくりをしている部分では似ているが全くの別の職種」だと。

職人は能書きを言わずに、作った物(製品)、修理した物(調整した物)、で相手に語れば良いと。

「あれだこれだと言っても、製品が全てを物語る。

決められた『納期』、『時間』と戦い、その中でお客様の予算に合わせそれ以上の品物を届ける。

これが職人としての『プライド』なのだ。」と。

「芸術家とは違い『職人』には厳しい納期がある。

その納期の中で求められた要望以上の品質で応えるための『技術』、仕事を早く仕上げる『腕』、細かく作業の段取りを組み立てるための『頭脳』が職人には必要だ。」と鈴木氏は言う。